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2019年5月

技術翻訳としての特許翻訳 第3回

第3回 化学特許翻訳における化合物の名称

化学特許の翻訳で留意すべき点のひとつは化合物の名称である。日英・英日翻訳どちらにおいても、化合物名の翻訳に際しては化学的な知識、特にその構造に関する知識が欠かせない。

化合物の命名法はInternational Union of Pure and Applied Chemistry(IUPAC)に定められている。これ以外にもAmerican Chemical SocietyがChemical Abstracts(CAS)誌で使用するCASレジストリーに登録するための命名基準が存在する。両者は共通する部分もあるが、異なっている部分もある。これ以外にも慣用名などや略称などもあり、1つの化合物が数個の名称を持つことも珍しくない。このような状況において、明細書中の正しい化合物名の表記は非常に重要である。

IUPACに定められている命名法は英語表記が基準となっている。化合物の日本語表記の基準は、「化合物命名法―IUPAC勧告に準拠―」(日本化学会命名法専門委員会編、東京化学同人刊)に記されている。これは化学系翻訳者にとって必須の書である。ウェブページでは、化合物命名法談義(http://nomenclator.la.coocan.jp/)が、非常に利用価値が高い。

化合物の日本語表記は大きく分けて、英語の綴りを「ローマ字」読みしたいわゆる「字訳」と、日本語独自の名称に翻訳した「翻訳名」の2つがある。圧倒的に多いのが字訳で、翻訳名は一部の化合物に限られている。従って、翻訳者は「字訳」の基準と、「翻訳名」が適用される範囲を正しく理解しなければならない。有機化合物の翻訳名の代表はカルボン酸とそのエステルである。これらについては、日英・英日いずれの翻訳においても注意が必要である。

カルボン酸の日本語表記は翻訳名であるが、酢酸(acetic acid)のように純粋な翻訳名とプロピオン酸(propionic acid)のように字訳と翻訳名が入り交じったものがあり、後者の方が圧倒的に多い。カルボン酸の英語表記では、語尾が必ず“~ic acid”となるが、これを日本語では“-酸”と翻訳する。その際に、icの部分をnに読み替える。例えば、ステアリン酸はstearic acidの字訳である。

カルボン酸の中性塩の英語名は陽イオンの後に陰イオン名を置き、酸からプロトンが失われてできる陰イオン名は酸の接尾語-ic acidを-ate(アート)に変えて作ることになっている。先ほどのacetic acidの塩は、例えばsodium acetateとなる。日本語では酸名の後に陽イオン名を並べて命名する。従って、sodium acetateは「酢酸ナトリウム」となる。このように、塩の命名法では、①英語は酸の部分の語尾が変化するが、日本語は変化しない、②英語と日本語は陽イオンと陰イオン名の記述が逆転している、ことに留意しなければならない。

カルボン酸とアルコールの反応生成物をエステルと呼ぶ。エステルの英語名は中性塩と同様の方法で命名する。すなわち、アルキル基またはアリール基の名称を陽イオンの代わりに置く。例えばethanol(エタノール)とacetic acid(酢酸)の反応生成物をethyl acetateと称する。厄介なのはここからである。エステルの名称を日本語で書くときは次の(ア)、(イ)のいずれかに従うことになっている。

(ア)  先に酸名を、次にアルキル基などの名称を記す。先ほどのethyl acetateは酢酸エチルとなる。化学会の基準ではこの方法が最も推奨される。

(イ)  英語名をそのまま字訳する。つまりアルキル基などの基名を書き、次に酸から誘導された陰イオン名(アート名)を書く。例えば、ethyl acetateはエチルアセタート(エチルアセテートではない)と書く。この方法の欠点はエチルとアセタートの関係がよく分からなくなることである。このような混乱を避けるために、成分が複合名の場合は、両成分の間につなぎ符号=を入れることになっている。英語にはスペースがあるが、日本語の概念にはスペースはないので、つなぎ符号で代用するという訳である。Ethyl acetateもエチル=アセタートとすればより明確になるが、このように簡単な化合物では、つなぎ符号は使用されない。

 

このような命名法の規則を知っていないと、意図したものとは全く異なる化合物を表していることになるので注意が必要である。以下に、間違った日本語表記の例を示す。

 

<例1>   攪拌機付き20リッターステンレス製オートクレーブに、高純度ジメチルテレフタル酸を1409g、その4倍モル量の1,4-ブタンジオール、チタンブトキサイド2gを仕込みエステル交換しポリブチレンテレフタレート(PBT)を得た。

 

エステル交換反応(transesterification)は次式で表されるとおり、エステルとアルコールを反応させて、それぞれの主鎖部分を入れ替える反応である。

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従って、「ポリブチレンテレフタレート」(ポリブチレンテレフタラートが化学会推奨の呼称)を製造するには「1,4-ブタンジオール」と「テレフタル酸ジメチル(下記式A)」を反応させなければならない。しかし例1の「ジメチルテレフタル酸」は下記式(B)に示すとおり酸であってエステルではない。

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 この事例では、「ジメチルテレフタル酸」(dimethylterephthalic acid)を「テレフタル酸ジメチル」(翻訳名)または「ジメチル=テレフタラート」(字訳)に読み替えて翻訳しなければならない。対応する英語はdimethyl terephthalateである。

 

【例1の訳例】A 20-liter stainless steel autoclave equipped with an agitator was loaded with high-purity dimethyl terephthalate (1409 g), 1,4-butandiol (four times the molar amount), and titanium butoxide (2 g) to form polybutylene terephthalate (PBT) through transesterification.

 

なお、例1における「チタンブトキサイド」は英語読みであり、化学会推奨の呼称は「チタンブトキシド」である。

 

英日翻訳におけるエステルの日本語表記について述べる。

 

<例2>   (rac)-4-(3-amino-1-(isoquinolin-6-ylamino)-1-oxopropan-2-yl)benzyl 2,4-dimethylbenzoate dimesylate

 

この化合物は2つの酸が関与したエステルであり、翻訳名は2,4‐ジメチル安息香酸ジメシル酸(rac)‐4‐(3‐アミノ‐1‐(イソキノリン‐6‐イルアミノ)‐1‐オキソプロパン‐2‐イル)ベンジルエステルとなる。最後のエステルは必須ではない。ちなみに、字訳は(rac)‐4‐(3‐アミノ‐1‐(イソキノリン‐6‐イルアミノ)‐1‐オキソプロパン‐2‐イル)ベンジル=2,4‐ジメチルベンゾアート=ジメシラートと、2カ所につなぎ符号=を入れる。つなぎ符号がないとエステルの構造が容易には理解できなくなる。

 

次例は、この応用例である。

 

<例3>   To a refluxing methanolic solution of substituted or unsubstituted sodium benzylthiolate prepared from 460 mg (0.02g atom) of (i) sodium, (ii) substituted or unsubstituted benzyl mercaptan (0.02 mol) and (iii) 80 ml of absolute methanol, is added freshly distilled substituted or unsubstituted phenylacetylene.

 

【公開された誤訳】46 mg(0.02グラム原子(g atom))の(i)ナトリウム、(ii)置換された若しくは置換されていないベンジルメルカプタン(0.02 mol)及び(iii)80 mlの無水メタノールから調製された、置換された若しくは置換されていないベンジルチオール酸ナトリウムの環流メタノール溶液に、新たに蒸留された置換された若しくは置換されていないフェニルアセチレンを加える。

上記の訳では、化合物名が誤訳である。Sodium benzylthiolateの化学式は下記の通りで、R1からR5までがすべて水素の場合は非置換であり、それらの内の1つでも水素以外の元素に置き換わっている場合は置換となる。化学的な知識を持っていて、名称から構造を想起できる人なら、この化合物はチオールの水素がナトリウムに置き換わったもの、すなわち、チオラート化合物であることが容易に理解できる。言い換えれば、アルコラートの酸素がイオウに置き換わったものである。アルコラートは酸の塩には属さないのでチオラートも酸の塩には属さない。sodium benzylthiolateの日本化学会推奨の日本語表記は「ナトリウム=ベンジルチオラート」である。ナトリウムと反応する前のbenzylthiol(ベンジルチオール)の構造を合わせて示す。

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IUPAC命名法に基づく、日本化学会の命名法に従うと、アルコール(R-OH)からHを除いた基(R-O-)を「アルコラート(alcolate)」と呼ぶ。例3のsodium benzylthiolateはそのまま字訳で「ナトリウム=ベンジルチオラート」と呼ぶことになっている。=記号は英語のスペースに相当するが、=がなくても誤解のない場合は省略することができるので、「ナトリウムベンジルチオラート」でもよい。なお、alcolateは英語読みをすると「アルコレート」、またthiolateは英語読みにすると「チオレート」だが、化学会の推奨命名法は基本的にローマ字読みに従っている。

以上述べたとおり、化学名の翻訳は命名法の基準に則り正しく表記しなければならない。日本語明細書、英語明細書でよくある間違いはisopropanol(イソプロパノール)である。IUPAC命名法ではisopropaneという名称は認められていないので、その誘導体のisopropanolも認められていない。一方で、isopropyl alcohol(イソプロピルアルコール)という慣用名が存在していたために、isopropanolという誤用が広まってしまった。IUPACの正式名称は、かつては2-propanol(2-プロパノール)だったのだが、その後改正されて現在ではpropan-2-ol(プロパン-2-オール)という。このように化合物名の翻訳には系統的な知識と経験が必要である。

 

【教訓】

①    化合物名の命名法は専門書やインターネットで正しい知識を学習する

②    時には、構造式や反応を正しく理解した上で翻訳に臨む

③    よくある間違いを繰り返さないため、自分でデータを整理しておく

 

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